着眼大局着手小局 ── まず戦略を策定し次いで戦術を遂行せよ

「ちょっとだけ挨拶させてもらいまっせ!」「そら、どうも!」 Canon EOS 5Ds R, EF24-105mm F4L II IS USM, f11, 1/60sec., ISO100, WB:Daylight
俺はまったく知らなかったんだが、昨日は「豆腐の日」だったらしい。オグリン♪さんのところの記事を読んで、はじめてそんな日のあることを知った。で、何で10月2日なのか? こういう語呂合わせで「ナントカの日」を定めている国は、世界広しといえども日本くらいではなかろうか(笑)。その豆腐ということで、またまた将棋の話で恐縮だが、将棋界で未だに語り継がれる有名な故事を書いてみたいと思う。面白い話なので、少しの間お付き合い願いたい。
終戦間もない昭和24年(1949年)、読売新聞社が主催する全日本選手権(現在の竜王戦の前身にあたる)という棋戦の決勝リーグにおいて「常勝将軍」ともいわれ絶対的な強さで将棋界に君臨し続けて来た木村義雄名人とようやく南洋の戦地から復員して来た期待の若手升田幸三八段が顔を合わせることとなった。両者の居住地が異なる場合、対局場は上位者の在所となるのが慣例であるから木村名人のホームである東京での対局で何の問題もないはずだった(現在も一般対局はその慣例によって決められている)。しかし、大阪在住の升田は、そちらが大阪に来いと言って譲らない。結局、間をとって金沢で行われることになった。既に番外の戦いは始まっていたのである。東の木村対西の升田、常勝名人対鬼才の若手、将棋ファンならずともこの一戦に注目が集まった(筆者注:二人とも既に鬼籍に入っており、木村には十四世名人、升田には実力制第四代名人の称号が与えられている)。
「木村を倒す者は俺しかいない」、打倒木村名人に激しく執念を燃やす升田は、かねてより木村に対して闘志を剥き出しにし、それを隠そうともしなかった。豪放磊落で一本気質な升田は、尊大ぶって放漫に振る舞う木村とは反りが合わなかった。さて、その騒動は対局前夜の会食の席で起こった。出された豆腐料理をつまみながら、木村名人が「豆腐は木綿ごしに限るね。絹ごしは歯ごたえがなくていけない」などとつぶやいた。大名人の言うことでもあり一同皆頷いたが、升田がそれに噛みついた。「豆腐は絹ごしが上等と決まっとるんだ。名人は貧乏人の倅だから、絹ごしの味がわからんのと違うか」なんてやった。確かに木村は東京下町の下駄職人の息子ではあるが、自分も広島県の貧農の四男であることを棚に上げてである(笑)。木村はむっとして「君はまだ若いから本当の味というものを知らんのだろう」と返したが、升田も負けていない。「味の善し悪しに年なんて関係ないだろう。名人こそ絹ごしのとろけるような味がわからんだけじゃないのか」と反撃する。木村が「それは君が田舎者だからだよ」と切り返したから論争に火が点いた(笑)。まるで子供の喧嘩である。関係者一同「そんなこと、どうでもええがな・・・」なんて思っていただろうが誰も口を挟めない。次第に論争がエスカレートして来る。
升田:名人なんてゴミみたいなもんだ
木村:名人がゴミなら君は何だね
升田:そのゴミにたかるハエみたいなもんでしょう
とやって高らかに笑い、座もどっと沸いて升田が一本取った格好になったが、木村も負けていない。
木村:君も偉そうなことばかり言ってないで、一度くらい名人挑戦者になったらどうだね
なんてキツい一発を見舞って、とりあえずこの論争は終止符を打った。翌日の対局はこの遺恨もあってか両者譲らぬ死闘となり、木村優勢ながら勝負は明け方にまでもつれ込んだが、最後は若い升田が逆転勝利を収めた。しかし、意地の張り合いはこの後も続く。勝った升田は、その勢いで「せっかく金沢に来ているのだから」と兼六園を散策することにした。すると、升田より一回り以上高齢で、しかも敗北とあって疲労困憊しているはずの木村が、自分も同行するといってきかない。升田は、天下の名園を半ば居眠りしながら歩く木村の様子を 「ああ、この意地っ張りが名人を支えているんだなあと、改めて感心もさせられたもんです」と述懐している。この一局が、盤上においても盤外においても、木村と升田という両天才棋士が総力を挙げた戦いであったという紛れもない証である。
以上が後に「ゴミハエ問答」と呼ばれて、現在でも将棋関係者のみならず語り継がれる有名な故事である。今の時代に、あくまでも仮の話であるが、羽生善治永世七冠に対して藤井聡太七段がこんな暴言を吐いたとしたら、将棋界は大炎上、上を下への大騒動となることだろう(笑)。そういう時代であったということなんだが、升田の名誉のために書き添えると、上記の述懐にもあるように、彼は木村の名人としての実力はよく認め、それに対して敬意の念を抱いていたことは事実である。一連の言動は、敢えて野武士的な立ち位置に自らを置き、己を発奮させようとする升田一流の駆け引きであったのかも知れない。
以上出典・引用:『名人に香車を引いた男 升田幸三自伝』(昭和35年(1980年)朝日新聞社刊)
升田幸三実力制第四代名人の座右の銘に「着眼大局着手小局」という言葉がある。ビジネス書などでもかなり有名なフレーズなので、聞いたことのある方もおられるかも知れない。その意味をわかりやすく表現するとこうである。
ある女の子を好きになって、嫁さんにしたいと思ったらどうするか?
いきなり押し倒してはいけない(笑)。
それが許されたのはせいぜい原始時代くらいまでで、今なら下手すると刑務所行きだし、
それどころか永遠に彼女を嫁さんにすることは出来なくなるだろう。
嫁さんにしたいと決めたなら、まず映画にでも誘う、食事にでも誘う。
そこから始める。
デートを重ね、彼女のことをよく知る。自分のことを知ってもらう。
次に誕生日に彼女の喜びそうなものをプレゼントする。
○○を試みる。
○○○○を試みる。
プロポーズする。
以下省略(笑)。
「隗(かい)より始めよ」の故事と意味は同じである。要は「まず戦略を策定し、次いで戦術を遂行せよ」という至極当然のことを言っているのだが、これが出来る人は決して多くはない。私が今でも肝に命じているフレーズである。ちなみに、私は升田さんの講演で彼の口から直にこの話を聞いた人である(笑)。

↑ 大変お手数ですが、 ワンクリックのご支援をお願いたします! 「にほんブログ村ランキング」に参加しています。みなさまの ワンクリックのご支援が何よりの励みになります!
- 関連記事
-
-
へべれけになる前につらつらと書いてみる ── 今宵は愚痴ばっかり 2019/10/08
-
嗚呼、俺の白き姫君よ ── Four Contrails in the Sky 2019/10/04
-
着眼大局着手小局 ── まず戦略を策定し次いで戦術を遂行せよ 2019/10/03
-
菜の花は薹(とう)が立ってから咲く 2019/10/01
-
つらいけれど、つらってとしてつらつらと書いてみる 2019/09/30
-