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酒とソラの日々 / Lazy Days of Liquor and the Skies

酒のこと、空のこと、写真のこと、しーちゃんのこと、北海道のこと、気象のこと、映画のこと、詩のこと

「人生を変えた一冊」について語ってみたいけど、人生変えるのが面倒くさい・・・!

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さえき奎
「人生を変えた一冊」について語ってみたいけど、人生変えるのがめんどくさい・・・!
出典:『バーナード嬢曰く。』第3巻(施川ユウキ著/一迅社/2016年刊)
ご存じでない方のために少し説明すると施川ユウキ氏作『バーナード嬢曰く。』は、ヒロイン町田さわ子と三人の友人が図書室に集い、様々な名著や作家あるいは読書スタイルやエピソードなどについて時には熱く時にはクールに語り合う書評・読書ウンチク・コミックの大傑作である。神林しおりサンについては「課題図書と読書感想文を直ちに廃止せよ!」にてご紹介させていただいたので、今回はヒロインである「バーナード嬢」(略して"ド嬢"ともいう)町田さわ子サンにご登場いただいた。

 「人生を変えた一冊」・・・そんなものあるだろうか。「人生を変えた」とまでは言えないかも知れないが、この本に出会っていなければ今とはおそらく違う人間になっていたんじゃないかと思うものならある。自分の備忘録としてちょっと書き出しておきたい。
 次の2冊と32巻は小学生から中学生の頃にかけて読んだ本だ。

『科学の事典』第2版(岩波書店 1964年刊)
親父がなんかの景品でもらったとか言ってたが、家の物置にほこりだらけになって放置してあったのを見つけた。これはある意味では確かに自分を変えたと言える一冊。1000ページ以上ある厚い本だが、特に何かの項目を引くというのではなく1ページ目から順に読み始めたら面白くてやめられなくなり、何度も繰り返し読んだ。私の事典・辞書類を頭から読むという楽しみはこの一冊から始まったと言っても過言ではない(笑)。岩波書店広辞苑をはじめとする人文科学系の辞書類は触るのもおぞましいクソばかりだけど、これはまあ自然科学系の事典なのでよしとしておこう(笑)。

『北海道地図帳』(北海道新聞社 刊行年不詳)

親父もお袋も道産子だから不思議ではないが、たまたま家にあった大型地図帳。これも自分の地理好きを決定づけてくれた一冊。北海道全図と14支庁管内(現在の総合振興局・振興局管内)毎の詳細地図帳。『科学の事典』同様どこかの場所を調べるというのではなく1ページ目から繰り返し読んだ。地図だから眺めたというべきかも知れないが、隅から隅まで舐めつくすように読んで全道の地形や河川、山岳、市町村の名称と位置を頭に刻み込んだ。小学校高学年から使い始めた社会科の地図帳があまりにも貧相過ぎて悲しかったので、親にねだって日本大地図帳を、次いで世界大地図帳を買ってもらい、また1ページ目からくまなく読んだ。

『グランド現代新百科事典 全32巻』(学習研究社 1970年刊)
さすがに家にはなかったので学校の図書館で読んだ。毎日通って第1巻の1ページから順に読み始め一巡したので、二巡目に(二巡目だとまた別の発見があり楽しい)入ったのは確かだがどこらあたりまで行ったのかまったく覚えていない(笑)。

 うーん、事典や辞書を1ページ目から読むというのは「馬鹿じゃん」と思われるかも知れないが、もしとりあえず読む本もなく、時間を持て余しているようなことがあったら一度試してみてほしい。もしかしたらその面白さに目覚めるかも知れないよ。ホントだべさ。だけど「保証するか」なんて言われてもこまるっしょー(笑)。
 いささか古い本ばかりなので、最近のものを挙げてみると・・・。

『現代語から古語が引ける 古語類語辞典』(芹生公男編・三省堂 1995年刊)
『現代語古語類語辞典』(芹生公男編・三省堂 2015年刊)

「人生を変えた」とまでは言わないけれど、この二冊がなければ俺の書く文章はがらっと違ったものになっていたことだけは確かだ。ベーシック版とでもいうべき『現代語から古語が引ける 古語類語辞典』に続いて2015年に刊行された『現代語古語類語辞典』芹生公男先生のライフワークともいえる現代語から古語まで一元的に引ける総合類語辞典である。この「一元的に引ける」というところに注目してほしい。タイトルに「類」という文字が入っているが実は「類」をみないユニークな辞書である。プロでもアマでも学生でも、散文であろうが詩であろうが短歌であろうが、おおよそモノを書く人なら必須のアイテムだ。これほど有用な辞書はどこを探してもないだろう。残念なことにもう版元にも在庫がないらしい。

現代語古語類語辞典25時
出典(左):『現代語古語類語辞典』(芹生公男編・三省堂 2015年刊)
出典(右):『25時』((原作:コンスタンティン・ヴィルヂル・ゲオルギウ/訳:河盛好蔵・筑摩書房 1950年刊)

 こうして書き出してみるとノンフィクションばかりだ(笑)。フィクション分野ではなかなか思いつかない。どうしようもなく泣けた一冊(『壬生義士伝』など)とかずっと心に残っている一冊(『ワインズバーグ・オハイオ』など)とかめちゃ面白かった一冊とか(『RDG レッドデータガール』など)ならあるんだけど・・・。まあ、フィクションに「人生変えられてたまるか!」というのも本音なんだけどね。フィクションでも「『変えた』と思っていた(が実は違ったという)一冊」なら山ほどあるある(笑)。あ、そういえば小説が一冊だけあった。これを忘れてちゃいかん。

『25時』(原作:コンスタンティン・ヴィルヂル・ゲオルギウ/訳:河盛好蔵・筑摩書房 1950年刊/角川文庫 1967年刊)
 ちなみにデイヴィッド・ベニオフ原作の小説で、2002年に映画化もされた『25時』(25th Hour)とは同タイトルだが全く別の作品だ。
 中学生時代、図書委員をやっていた時、先生が廃本(不要になった廃棄予定の蔵書)の山の中から好きなものを持って行ってよいと言うので、何冊かもらって来た中にあった古ぼけた一冊で『25時』というタイトルにすごく惹かれるものがあった。さすがに中学生時代にはちょっと手に負えなかったが、高三になったある夜、何気なく読みはじめたらやめられなくなり結局徹夜して読破した。あまりの衝撃にそのまま学校を休んでしまったほどだ(笑)。
 かいつまんで言えば、第二次世界大戦前後にかけてのヨハン・モリッツというルーマニア人の話なんだが、彼の妻に横恋慕したドイツ兵が彼をユダヤ人と偽証して収容所送りにするところから物語は始まる。彼はその時から13年に渡って数奇な運命に翻弄されて行くことになるのだ。「25時」とは「最後の時間の後に来る時間」のことであり「メシア(救世主)の降臨を以てしても何も解決されない時間」を意味している。つまり「究極の絶望の時間」のことだ。ゲオルギウがこの小説を刊行したのは1949年のことであるが、ソビエト連邦の台頭とともに冷戦が始まる頃である。この時点で既に「ロシア(ソ連)は共産主義革命の後、西洋の技術革命の最も前進した一部門になった。(中略) ロシアは野蛮人だけが、原始人だけが出来たような方法で西洋を模倣したのだ」と喝破しているところがすごい。
 ラストを思い返すと今でも涙がこぼれる。戦争が終結し、ようやく辿り着いたアメリカ軍のキャンプで、モリッツは家族とともに敵国人として尋問を受ける。モリッツはアメリカ軍将校の質問にこう答える「1938年に私は、ルーマニア人としてユダヤ人キャンプにおりました。1940年には、ハンガリー人としてルーマニア人キャンプに。1941年にはハンガリー人キャンプに、ドイツ人として。1945年にはアメリカのキャンプに。(中略)キャンプ生活13年間。私は18時間だけ自由でした」。
 この作品は現在ではもう手に入れることができない。しかし、ソビエト連邦が崩壊し、共産主義が幻影であったと判明した現在でもその価値はいささかたりとも失なわれてはいないと思う。

引用:『25時』((原作:コンスタンティン・ヴィルヂル・ゲオルギウ/訳:河盛好蔵・筑摩書房 1950年刊)
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誰そ彼(たそがれ)時・彼は誰(かわたれ)時・逢魔(おうまが)時 ── 次の世代に残したい言葉

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さえき奎
逢魔時(おうまがとき)序章「逢魔時(おうまがとき)序章」 Canon EOS 5Ds R, EF24-105mm F4L II IS USM, f8, 1/60sec., ISO100, WB:Daylight
黄昏とは日没直後のまだ夕焼けの名残の赤さが残る雲のない空を指して言うそうだから、まだ陽が沈んでいないこのカットは黄昏ではないがこのまま暮れて行けば黄昏になるという段階だ。ちょっと洒落れこんで言えば「黄昏序章」といったところだろうか。

 厳密な定義では黄昏とは、日没直後のまだ夕焼けの名残の赤さが残る雲のない空を指して言うらしい。つまり夕焼け雲なんかがある空は黄昏とは呼ばないということだ。手持ちの画像をざっと探してみたが一向にそのような夕空のカットが見当たらない。よく考えてみれば、そんな面白みのないというか趣のない空にカメラを向けるはずもなく、何とか見つけたその定義に近い空が上掲の一葉である。
 「たそがれ」「たそがれどき」は元々あたりが暗くなって人の顔の識別がつかなくなった時「誰(た)そ彼」(誰ですかあなたは)と互いに尋ね合ったことが語源とされている。同様に「かわたれ」「かわたれどき」(旧仮名遣いでは「かはたれ」「かはたれどき」)という言葉があり、こちらは「彼(か)は誰」(あなたは誰ですか)という意味である。本来「たそがれ」も「かわたれ」も、夜明け前や日没後の薄明の頃合いを指して区別することなく用いられてきたが、後に「たそがれ」が日没後「かわたれ」が夜明け前と区別されるようになったとされている。しかし、北原白秋の『片恋』には「あかしやの金と赤とがちるぞえな。かはたれの秋の光にちるぞえな」とある。これは明らかに夕景だと思われるので、少なくともこの時代あたりでも朝夕の区別なく使われることはあったようだ。
 「たそがれ」は現代でもバリバリの現役というより、老若男女の別なく人気があって広く使われている言葉であるのに対し「かわたれ」の方は瀕死の状態にあるといっても過言ではない。もはや「死語」に分類する向きもあるようだ。少し古い詩集や歌集・句集を紐解いてみれば、そちこちで普通に使われているようにみえる。急速に廃れてしまったように感じるのは何故なのだろう。言葉の響きとか語感の問題なのか。「かわたれ」も十分魅力的で美しい響きを持っていると思うのだがどうなのだろう。
 もう一つ「逢魔(おうまが)時」という言葉がある。別に「大禍時(おおまがとき)」と書かれる場合もあるが、黄昏時の異称で魔物や禍(わざわい)に遭遇する頃合いと信じられていたことが語源らしい。昼が夜に移行する時間帯という意味合いから、現世(うつしよ)と常世(とこよ・つまりあの世)が入れ替わる時になぞらえたとも言われている。つまりその境目は魑魅魍魎が跋扈しはじめる頃合いでもあるということだ。そういうことからも、子供らが夕方遅くまで遊ぶことを戒めるためにも盛んに用いられていたようだ。街灯もなく住居の灯さえ乏しく、今とは比べようもないほど夜が暗かった時代には、おそらく現実感のある言葉として受けとめられていたに違いない。もっとも『三丁目の夕日』の世界くらいに時代が下がると、逢魔時には「魔物に遭う」という戒めに併せて「人さらいが来る」とか「サーカスに売られる」(サーカス関係の方、ごめんなさい。全く信じていませんのでご容赦のほどを)などというエピソードも登場してくる。さらに下って、ますます昼と夜の境がなくなっている現代では「逢魔時」も急速に死語に近づいている言葉なのだろう。何とか次世代に残してやりたいと思うのは、私だけのノスタルジックな感傷に過ぎないのだろうか。

暁のかはたれ時に島蔭を漕ぎにし船にたづき知らずも

あかときのかはたれどきにしまかげにこぎにしふねにたづきしらずも

早暁の薄明のなか島陰を漕ぎ出して行く舟の何とも心許ないことよ

引用:万葉集第二十巻 池田得大理
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私あんた(紫薩摩富士さん)のことずっと待ってたさ ── 巻雲を愛す

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さえき奎
いさよふ雲は妹にかもあらむ
「いさよふ雲は妹にかもあらむ」 Canon EOS 5Ds R, EF24-105mm F4L II IS USM, f8, 1/250sec., ISO100, WB:Daylight
今日の巻雲。鈎状巻雲なのだが後方に尾を引くだけではなく、上方にも沸き立つように毛羽立っている。あまり見ない雲形だ。もしかしたら上空は風が強く舞っていたのかも知れない。

 昨日はお隣栃木県の小山市周辺で素晴らしい環水平アークが観測できたそうだ。写真を見るとかなり明るく鮮明なアークでうらやましい限りだ。確かに梅雨の中休みの晴天の空にはかなり妖しげな雰囲気が漂っていた。俺も朝から用心して度々スカイ・チェックはしていたのだが結局不発に終わった。おかしいなあ。小山と俺んとこってわずか20kmしか離れていないんだよ。ここんところ品行方正に過ごしていたのに、天の神様はどうして俺んところを外すんだろう(笑)。
 などとボヤいていたら、今朝は夜明けごろから空一面に巻雲が出た。太陽周辺にも次々にかかって来ているのに幻日や環天頂アークはおろかタンジェントアークや22度ハロすら出て来ない。まあ、贅沢を言ってはいけない。これほど満天に巻雲がひしめくことも相当に珍しい。朝5時頃から2時間ほど撮影していたが、次第に厚い雲が増えて来たので終わりにした。今日の巻雲は、おそらく西方から近づいて来る低気圧の前衛なんだろうな・・・。
 変な時間に起きてしまったせいか、仕事にまったく身が入らない。暑さがそれに拍車をかける。「もう今日はおしまいにするべや」「いやいやそれはまずいっしょー」などと自問自答して煩悶、ますます身が入らない。昼に黒ゆとりさんのところで「薩摩富士をロックで飲りたいという衝動に耐えている」なんて書き込んだものだからますます「まずいべや」の声が遠ざかり「飲も飲も」の声が近づいて来る(笑)。で、三時頃早々に切り上げて、とりあえず氷をたっぷりいれたグラスにシークヮーサーを注ぎ紫薩摩富士で満たしてカンパーイ。私あんた(薩摩富士)のことずっと待ってたさ・・・(笑)。
 いいんだべか・・・いいんでねの。こんな日もあるっしょー。ん ── 「毎日じゃねえか」ってソラ耳がしたような気がする(笑)。

こもりくの初瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ
こもりくのはつせのやまのやまのまにいさよふくもはいもにかもあらむ

あの初瀬の山に漂う雲は逝ってしまった愛する妻なのだろうか

引用:万葉集第三巻 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
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ざっくり言うと「ハロ」と「アーク」があるんだよ ── 楽しい?大気光学現象入門 第1回

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さえき奎
果報か吉兆か偶然か必然か果報か吉兆か偶然か必然か(解説図)「果報か吉兆か偶然か必然か」 Canon EOS 5D Mark II, EF 24-105mm F4L IS USM, f8, 1/500sec., ISO100, WB:Daylight
一度に複数のハロやアークが出現することを「マルチディスプレイ・ハロ」という。運と条件さえよければ、それこそ7種類も8種類ものハロやアークが天空を彩ることもあるそうだが、一度でいいからそんなソラに巡り合ってみたいものだ。これは「マルチディスプレイ・ハロ」と呼ぶにはいささかショボい感じは否めないが、それでも5種類のハロとアークを確認できた。ほんの微かに「ウェゲナーの向日アーク」らしきものも見えるのだが、おそらく目の錯覚だろう。パリーアークもかなり怪しいがこれだけは信じたい・・・(笑)。

たき:今日は、奎さんにこのブログの大きなテーマの一つでもある大気光学現象について語ってもらいましょう。
:語ってもいいんだけど、しょせんオタクの世界の話だからな・・・。
さわ:そんなにすねたりしないで、わかりやすくそのオタクの世界のこと教えてくださいよ。
たき:そうですよ。私だって、もっとよく知りたいなと思うことが、ごくごくたまーにないこともないんですから・・・。
:別にすねたりしてねえよ!でもまあ、そこまで「どーしてもって」お願いされるんならしょーがねえな(うれしそう)。「大気光学現象って何なんだ」ってところから行くとするか。大学の講義風に言うと「大気光学現象概論」って感じかな(笑)。
たき:奎さんがよく「ハロ」という言葉を使われてますけど・・・。
:「ハロ」ってのは「大気光学現象」のうち太陽(時には月も)を中心に環を描いて出現するものと考えてもらっていい。一口で言えば太陽の周りに見えるわっかだ。毎度毎度"た・い・き・こ・う・が・く・げ・ん・し・ょ・う"なんてくそ長い文字を打つのは疲れるじゃねえか。まあ環を描いてない現象でもハロと呼んじまうこともあるけど、やっぱり大気光学現象ってのが長過ぎるからだろな。
さわ:そうか。大気光学現象が「ハロー、ハロー、オタクさん」なんて挨拶しながら出現するように見えるから「ハロー」なんですね。
:お前のそのユニークな発想にはいつも二日酔いを醒まさせてもらってるよ、ありがとな。
さわ:それって誉めてますよね。
:もちろんだ(笑)。だけど「ハロー」"Hello"じゃなくて「ハロ」"Halo"だからな(ネイティブ・スピーカーが発音すると「ヘイロー」と聞こえる)。日本語では光輪・光環・暈(かさ)などという。一番普通に見られるのは太陽や月に「暈がかかる」と言われるやつでこれは見たことあるだろう。
たき:それならあります。よく月に暈がかかると雨になるとか言われてますよね。
:そう。あれがハロの代表で太陽や月から22度離れたところに環になってかかるので「22度ハロ」というのが正式名称だ。内暈(うちがさ・ないうん)あるいは単に暈(かさ)ともいう。
たき:22度ハロと言うからにはそれ以外のハロも出るんですか。
:その通り。46度に出るやつは46度ハロ外暈(そとがさ・がいうん)言うんだが、22度のやつとは違ってこれはかなりレアな現象だし、出現したとしても極めて淡いものであることが多い。他にも9度・18度・23度・35度にも出ることが確認されている。9度はたまに見られるが他はレアと言っていいだろう。他に特殊なものとして「幻日環」という現象、これ自体レアな現象なんだが、その希な現象のさらなる希な場合に全周、つまり環を描いて出現することがある。但し、太陽の回りにではなく環が太陽を貫いた形をしている。
たき:新聞やテレビの気象情報番組などで単に「ハロ」と呼んでいたりするのを見かけるんですけれど、これはその22度ハロのことなんでしょうか。
:うーん、気象予報士といっても、大気光学現象については意外にもあまり知識を持ってない人がいるんだなあ。先日も、虹の脚(虹の弧の根元部分)が見えているだけなのに、「珍しい『虹色の雲』が出ていた」なんて書いて抗議と問い合わせが殺到した人がいたんだよ(笑)。まあ、単に「ハロ」とだけ書くのは誤解を招くからやめてほしいな。今説明したように「ハロ」というのは何種類かある現象の包括的な名称だからさ、きちんと「22度ハロ」かそれがめんどいなら「内暈・うちがさ」という立派な日本語があるんだからそう書くべきなんだよ。昔はちゃんと「内暈」と書いていたように思うんだけど、最近は確かに「ハロ」としか書いていないケースが多いな。まあ、気象予報士ですらそういう人がいるんだから、記者なんかは何にも知らないか半可通で横文字のかっこよさげな言葉を使ってみただけなんだと思うよ(笑)。
たき:実はその「22度離れてというのがよくわからないんですが・・・。
:空にあるもの同士の間隔を言うのに何cmとか何mとか言えないだろう。「太陽から5cm離れたところに幻日が出現しました」なんて言った時に、それはどこでどいういう風に測った5cmなのかちょっと考えてみてくれよ(笑)。
さわ:えー、空に定規を当てて測ってみればいいんじゃないですか。
:ちょうどあの時計が円形をしているから、ちょっとこれを持って直径を測ってみろよ(定規を渡す)。
さわ:えーと、4cmですね。やっぱりこれでいいんじゃないですか。
:お前、今手を伸ばして測ったけど小学生だったら4cmだと思うか。少し手を引っ込めて測ってみろよ。
さわ:あれれ、今度は3cmになりました。
たき定規では測る人の目と定規との距離によって数字が変わって来るんですね。
:そのとおり。だから空にある任意の2点の間隔を表す場合は角度で言うってことだ。大体東の地平線上と西の地平線上の距離なんて何mって言うつもりだよ(笑)。
たき:なるほど。誰が測ろうと頭の真上と地平線上だと90度、東と西の地平線だと180度ってことですね。よくわかりました。
さわ:(何事もなかったかのように)えーと、以前奎さんの写真ですごく明るい虹みたいのを「外接ハロ」と書いてありましたけど。
:おい、相づちくらい打ったらどうなんだよ(笑)。たくもう・・・あれもハロの一種だけど22度ハロと一緒に出ることが多い。真円の形をしている22度ハロの12時と6時のところにだけ接していて3時と9時のところがふくらんだ楕円形をしているんだ。ただ、氷晶の形の関係だと思うんだが、22度ハロと外接ハロが完全な形で同時に出現したのは観たことないけどな。
たき:それで「外接」というんですね。
さわ:円に楕円、角度が何度とか外接だとか、幾何の勉強みたいで頭が痛くなって来ました(笑)。
:頭痛起こすのはまだ早いぞ(笑)。この外接ハロは形が一定ではなく、太陽高度が低くなってくるとだんだん上下に離れて行って最後には別れてしまうんだ。その時22度ハロの時計の12時の位置に接して出るのを上部タンジェントアーク、6時の位置に接して出るのを下部タンジェントアークと呼ぶ。上下のものを合わせて単にタンジェントアークとも呼んだりするぞ。
さわ:今度はタンジェントですか。赤点取った悲しい思い出よみがえって来て、じんましんが出そうです(笑)。
:タンジェントと言っても三角関数のタンジェントとは違うからじんましんは引っ込めろ(笑)。このタンジェントアークもどんどん形が変わって行く。例えば上部タンジェントアークは、太陽高度が低くなるにつれて「つぶれたM字形」→「U字の下部分というか下括弧形」→「V字形」と変化して行くから面白い。
たき:別に面白くはないですが、何だかタンジェントアークって得体の知れない幽霊みたいなものなんですね(笑)。
さわ:今度は「アーク」って言葉が出て来てますけど・・・。
ハロ"Halo"が光輪つまり「環」であるのに対し、アーク"Arch"とは「弧」のことで、言ってみれば円の一部を切り取ったような弓形をした曲線のことだ。ただし、ハロが必ずしも環の状態で見えるとは限らない。氷晶の分布状態によって一部分しか出現しない時はハロのように弧に見えたりするということは覚えておいてほしい。

22度ハロ(内暈)環天頂アーク
「ハロとアーク」
写真左:22度ハロ(内暈・うちがさ) Canon EOS 5Ds R, EF24-105mm F4L II IS USM, f11, 1/1000sec., ISO100, WB:Daylight
写真右:環天頂アーク Canon EOS 5D Mark II, EF 24-105mm F4L IS USM, f8, 1/500sec., ISO100, WB:Daylight

さわ:ハロとアークでハローアークですか。間違えて職を求める人たちが来そうです(笑)。
:来ねえって、それはハローワークだ(笑)。お前さあ、どんどんオヤジ化してねえか?俺でもそんな寒いオヤジギャグ滅多にかまさんぞ(笑)。
たき:今頃気づいたんですか。ずっと前からさわちゃんは根っからのオヤジギャルですよ(笑)。
:全然知らんかったよ(笑)。まあ、大気光学現象には大きく分けてハロとアークの2種類があると思ってもらえればいい。共通しているのはそれらが空の上にある氷晶、つまり雲をつくっている細かい氷の結晶を太陽光が通過する時の屈折作用で見えるということだ。
さわ:オタク現象ってハロとかアークとか英語ばっかりなんですね。日本人なら日本語で言うべきだと思いまーす。
:そうだな。ちゃんと日本語もあるぞ。例えば環天頂アークは「環天頂弧(かんてんちょうこ)」、上部タンジェントアークは「上端接弧(じょうたんせっこ)」、上の写真にある上部ラテラルアークは「上部接線弧(じょうぶせっせんこ)」てな具合だ(笑)。
さわ:余計舌を噛みそうじゃないですか。あーもう、頭痛薬はどこへやったかな(笑)。
たき:奎さん、さわちゃんの限界が近そうですので第1回はこのへんでお開きにしませんか(笑)。
:そうだな。じゃあ次はいろんなアークについてやるぞ。
さわ:もう全部「虹」ってことでいいんじゃないですか。
:思い出したよ。その虹とハロやアークの根本的な違いについてもやるぞ(笑)。
さわ:わあ、やぶ蛇になっちゃった(笑)。

  次回へ続く:掲載時期未定  



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Song / 私が死んでしまっても ── クリスティーナ・ロセッティの詩を読んでみる 第2回

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さえき奎
君を偲びて眠らまし、君を忘れて眠らまし「君を偲びて眠らまし、君を忘れて眠らまし」 Canon EOS 5Ds R, EF24-105mm F4L II IS USM, f8, 1/500sec., ISO100, WB:Daylight
夕刻の濃密巻雲が彩雲となった。いつも光環か彩雲かで悩むのだが、これは問題なく彩雲だろう。迷ったのは雲の方で、さらに上空に鈎状巻雲が出ているのでもしかしたらこちらは巻積雲かなとも思ったが、おそらく濃密巻雲だろう(いつも思うのだが、この「濃密巻雲(「濃密雲」というのが正式名称らしい)」と言うのはラテン語を直訳したものらしいがあまりにもセンスがない。学術的な用語には情緒性など無用の長物なのかも知れないが、もう少しなんとかならなかったのかと考えたりする)。昼間の彩雲はホワイト・オパールのような、夕方の彩雲はファイヤ・オパールのような彩りをみせてくれて甲乙つけ難い魅力がある。

 この詩(三井ふたばこの訳)を初めて知ったのは、当時ロセッティにかぶれていた私のために、しーちゃんがサラ・ティーズデールの"There Will Come Soft Rains"(やさしく雨ぞ降りしきる)に続いてわざわざ探して来てくれた手書きの写しを読んだ時からです。昨今のようにネットで何でも検索できる時代ではなく、おそらく図書館に通い詰めて様々な詩集を一冊ずつ丹念に探してくれたのだと思います。改めて振り返ってみても「普通こんなことやらんよなあ」と思います。だから、あの筆跡、インクの匂い、バックプリントされた便箋の模様・・・今でもはっきりと脳裏に去来し、いつも胸が熱くなるのです。


"Song"

Christina Rossetti

When I am dead, my dearest,
Sing no sad songs for me;
Plant thou no roses at my head,
Nor shady cypress tree:
Be the green grass above me
With showers and dewdrops wet;
And if thou wilt, remember,
And if thou wilt, forget.
I shall not see the shadows,
I shall not feel the rain;
I shall not hear the nightingale
Sing on, as if in pain:
And dreaming through the twilight
That doth not rise nor set,
Haply I may remember,
And haply may forget.


「私が死んでしまっても」

クリスティーナ・ロセッティ

私が死んでしまっても
やさしい君よ
私のために悲しい歌を歌わないでください
私の上に薔薇の花も
影深い糸杉の木も植えないでください
ただそこは露に濡れる
緑の若草をしいて下さい
そしてあなたが思いだすなら思いだして
忘れるなら忘れてください
私は影も見ないでしょう
雨も感じないでしょう
苦しげに鳴いている
夜鶯(ロシェル)の声も聴かないでしょう
そして朝も夜もない薄明かりの中で
私は永久にうつらうつらと
思い出したり
忘れたりしているでしょう

(三井ふたばこ 訳)

引用:『愛の名詩集〈世界編〉』 講談社 昭和42年(1967年)刊

「歌」

クリスティーナ・ロセッティ

いとしき人よ われ死なば
   悲しき歌を やめたまへ、
影濃き松も 薔薇をさへ
   わが墓の辺に 植ゑませず、
時雨と露に 濡れそばつ
   ただ青草を 茂らせよ、
しのびたまふも 忘るるも
   心のままに なしたまへ。
日影くもゐも われは見ず
   雨の雫も かかるまじ、
傷(いた)み心に 啼きしきる
   鶯さえも 聞こえまじ、
暮るることなく 明けもせず
   おぼろの闇に 夢みつつ、
君を偲びて 眠らまし
   君を忘れて 眠らまし。

(入江直祐 訳)

引用:『クリスチナ・ロセッティ詩抄』 岩波書店 昭和40年(1965年)刊

 クリスティーナは「死をうたう詩人」とも呼ばれているくらい死をモチーフにした作品を多く書いた詩人です。それは前回ご紹介した子供向けの詩集"SING-SONG"(ロセッティ童謡集)ですら例外ではありませんでした。今回ご紹介した詩はクリスティーナが18歳の頃の作品で、彼女の作品のなかでももっとも有名で愛されているものの一つです。何という早熟、何という純熟・・・。もちろん時代は違うのですが、自分が18の時、何を思って何を書いていただろうと否応なしに考えさせられる美しい一篇です。
 クリスティーナの詩には、タイトルがない作品がめずらしくありません。詩集などでは、読者の便宜のために冒頭の行がタイトル代わりに記載されていることがあります。しかし、この作品には彼女自身が付けた原タイトル"Song"があるにもかかわらず、日本語訳では「私が死んでしまっても」や「私が死んだ時には」といったタイトルで広く知られています(もちろん原タイトルどおりに「歌」や「ソング」とするものもあります)。ある翻訳者(誰かは不明)が、冒頭の"When I Am Dead, My Dearest"(私が死んだら、愛しいあなた)から恣意的にタイトルを導いたものが、他の翻訳者にも踏襲されて来たものなのか真相はわかりませんが、この記事ではそれぞれの翻訳者を尊重して、つけられたタイトルをそのまま掲載しました。
 詩人・童話作家の三井ふたばこ氏(みついふたばこ、1918年‐1990年、詩人・仏文学者であった西条八十氏の長女)の有名な訳に加えて、入江直祐氏の文語訳も併せて載せてありますので是非読み比べていただきたいと思います。この三井ふたばこ訳は間違いなく名訳であると思うのですが、一点だけ疑問に感じたのは「若草をしいてください」の部分です。前行"Plant thou no roses at my head, Nor shady cypress tree"「私の上に薔薇の花も 影深い糸杉の木も植えないでください」を受けて"Be the green glass above me"と続くわけですから、素直に訳せば「私の上を若草(のある状態に)してください」という意味になると思われます。ですから、この部分は訳文の字面どおりに「(刈り取った)若草を敷いてください」などではなく、「芝生を張る・植える」ことを「芝生を敷く」とも言う用例などにも鑑みて「植えてください」の意味としてみるべきではないかと考えます。現に入江直祐訳も「ただ青草を茂らせよ」としていることからもそう解釈するのが自然だと思うからです。

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  次回へ続く:掲載時期未定  



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